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zoom RSS 白髭神社

<<   作成日時 : 2009/07/13 00:40   >>

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私は子供の頃地図を見るのが好きだった。
地名を見て、どんな場所だろうと知りたくなったりした。
だから、旅行しても、名前に惹かれどんな場所だろうと思い、何でもない場所にも足を運ぶことがある。

以前のブログに、私の住んでいた市に白髭神社と言うのを地図上で見つけ随分変わった名前の神社だなと思ったと言う事を書いたが、私の住んでいた場所とは遠く、そのあたりに行く機会もなかった。

白髭神社の由来が新羅から来ていると言うのは今年になって知った。
それで、子供の時地図で見た白髭神社はまだあるだろうかと気になり、ネットの地図で調べてみると、それらしき神社があった。
ネットで調べてみると、何の事は無い白髭神社は珍しいものではなく、安倍川流域の山の奥の奥まで点在している。

http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/jiin/sirahige/sirahigejinnjya.htm
 

小学校の3〜4年生の時、初めて郷土の歴史を勉強した時、安倍川の支流の藁科川流域に服織(はとり)と言う場所が在るが、それは昔帰化人が住み着いて機織りをした場所なので服織と言う地名になったのだと教えられた。
その時、私には服織と言う場所は、その当時は行った事もない田舎で、どうして、帰化人はそんな山に囲まれた田舎に住んだのだろうと不思議に思ったものである。

ある本には、現代の私たちから見ると。平野の方が、山間より便利に思えるが、昔の人にとっては、川が在り、背後に山が在る地域の方が便利であった書かれていた。考えてみればそれの方が、水が手に入りやすく、魚も動物も木の実も手に入る。

しかし、登呂遺跡は平野の真っただ中に存在する。今は江戸時代薩摩藩の工事のお陰で安倍川の水は堤防で氾濫する事は無いが、昔は四方八方に流れていただろうと言う事は想像できる。だから、水田が出来たのであろう。

登呂遺跡は3世紀の遺跡であるが、藁科川に住みついた帰化人秦氏が日本に来たのは4〜5世紀と言われているので、登呂遺跡の人々は秦氏のバックグラウンドとは全く違う人々だったに違いない。住む環境が違いすぎると思う。
平野はもう他の人たちが住んでいるので、山間に住みついたのかも知れないし、秦氏と言えども色々な技術を持った人たちだったであろうから、自分の技能に適した土地に住みついたのかも知れない。


白髭神社が在ると言う事は、帰化人は服織に住んでいただけではなく安倍川流域全体に住んでいた事になる。
しかし、安倍川流域で彼らは何をしていたのであろう。
昔、機関車で有名な大井川鉄道で井川まで行き、帰りに安倍川沿いに走るバスで静岡まで帰ってきたことが在る。
その時の印象は山間を安倍川が走り、その安倍川沿いに道路が通っているだけで、平野に近い土地以外では農業など出来る環境とは思えなかった。

それでは何でそんな山間に住んだのか考えてみて心に浮かんだのは鉱物であった。
安倍川沿いの山には鉱物が在るだろうかと調べると、金があった。

安倍川の源流近くの梅が島温泉には日影沢金山跡と言うのが在り、”日影沢金山は、今川氏の金山として有名で享禄年間(1528〜1531)には大量の砂金を産出してたびたび朝廷や公爵に寄進した。天正3年(1575)金鉱脈が発見されそれまでの砂金採取から坑道堀が行なわれるようになった。天保2年(1831)閉山。”と書かれたものをネットで見つけた。

この文章からすると、砂金が取れていた事になる。現在でも安倍川では砂金が取れるようである。しかし事業としては行っていないと思うが。

この梅が島にも白髭神社がある。すると、帰化人達は砂金を摂るために安倍川の奥に入り込んだのであろうか。

それにしても、自分の故郷にこんな歴史があったとは面白いなと思う。

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